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  靴作家・森田圭一 ストーリー #2


 
 

 
ストリート靴職人

 
 2007年に西成製靴塾を卒業後、私は神戸市須磨海岸の近くに、こうべくつ家を開設しました。古い一軒家を改装した住居兼工房。大きな夢を乗せて進みだした船は、一年後思わぬ方向に舵を切ります。本文はストリート靴職人と自ら銘打ち、約40か所で製作実演をするきっかけから、その終わりまでを振り返っています。
 
本文は2010年発行のメルマガのために書き下ろした文章を一部編集し掲載しています。
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 

1.なりたくてなったわけじゃないんだ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

 西成製靴塾を卒業し、意気揚々と工房を立ち上げたものの、肝心の資金がない。しかも、自分の靴の売り先さえもさっぱり見つからない。このまま収入がなければ、革も買えないし、家賃だって払えないと、元職場の靴メーカーで再び働かせてもらう事となった。
 昼間は靴メーカーで製造、夜は工房でサンプル作り。「なんだよー、靴まみれの生活じゃねーかー、ははは」と実は喜んでいた。・・・訳ではなく。32歳にもなって、生き方を何も考えてない自分が、ほとほと情けなくなった。

 もともと雇われるのが性に合ってないようで、退社したときは監獄から抜け出したかのよう、柳沢信吾ばりに「あーばよ」てな具合。啖呵を切って長田の町を後にしたものだから、ほとほとばつが悪い。
 「あら靴職人さん、出戻りですかい?」と現場の皆に揶揄されては、「やー、すみません、よろしくおねがいしまーす、はは」と頭をかく。自業自得。あのときは、そんな恥ずかしさと情けなさを抱えて帰っては、日々、その憤りを靴作りにぶつけていたような気がする。

 とにかく靴作りのアルバイトに、こうベくつ家でのわずかな仕事をこなす毎日。収入は昼間のアルバイトの方が多い。これでは趣味でやっている人と変わらないじゃないかと、悶々とした毎日が過ぎていく。そんな掛け持ち生活にほとほと嫌気がさしたのが1年後。
 工房開設から一向に変わらない現状に、溜まり溜まったジレンマが一気に爆発。思い立ったが吉日、現場から即社長室へ。「お世話になりましたー」って、その日に仕事辞めた。現場の道具を整理して鞄に詰め込み、ちゃりんこで帰る。気分はまるで「映画・ばかやろー」の世界である(自分がバカヤローである)。
 工房の扉を開け、冷蔵庫のビールをぷはっ(この頃は工房兼住居だった)。くー、と背伸びをして、はたと我に返る。で、明日からどうする?

 それから数ヶ月。
 カネなし、コネなし、一文なし・・・
 ヤバい!
 思った時、すでに遅し。

 家賃は3ヶ月滞納。公共料金の勧告請求書が届き始め、毎日の食事が1食になったとき、僕はストリートに出る事を決意する。というよりかは、それしか出来る事が思い浮かばなかった(空腹だったし)。

 これが、僕の製作実演のきっかけだったりする。人間というのは、何とも言いがたい滑稽さを、たえず併せ持っているから愛おしいのだ。

 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

2.糊口をしのぐ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

 ハラがへった、飯が喰いたい・・・
 だから俺の靴を買ってくれー

 道ばたに靴を並べ、こつこつと靴を作る。
 足を止めてくれた人たちに、なんとか伝えよう。
 身振り手振り、あーだ、こーだとやりながら名刺を渡す。
 履いてください!
 ホームページ見てください!

 藁にも縋る思いとはこのことを言うのだろう。
 まるで選挙カーから迷惑はばからず、投票を懇願する政治家のようだな。
 僕は恥ずかし気もなく、そこに立っていた。

 1日に配る名刺の数は200枚ばかし。そのうち連絡をくれる人は、1人いればいい方で、3回のストリート実演で1足注文が取れればもう奇跡といった有様。昼間の靴メーカーの仕事を辞めた僕には、こうべくつ家の収入がすべてで、ストリートで食いっぱぐれれば、たちまち夢は泡と消える。自分の城を持ち一1年と少し。ここで辞めてなるものかと、あの頃は必死だった。

 当時の売り上げの大半は、余った革で作ったレザー・ブレスレット。1センチ幅の小さいのが800円、3センチ幅のごついのが1600円。その場でお客さんご希望の刻印を入れていく。3本売れれば交通費が出て、それ以上売れれば飯にありつける。さらに靴が売れれば、それは家賃になった。
 なんとか生きている、人に認めてもらえるようになってきたぞと思える日も、多くはなかったがそれなりに増えてきて、そいつが自信にも繋がっていった。とはいっても、ストリートで靴を売るっていうのは、なかなか割に合わない仕事。糊口をしのぐ生活には変わりなかった。


 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

3.カオスな奴ら

 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

 ストリートに出ると、よくも悪くもいろんな類いの人に出会う。美人な女性作家の追っかけみたいな兄ちゃんは、4時間くらい作家のお姉さんを口説いているし(そんな奴に限って大概しゃべりに覇気がなく、あげく何も買っていかない)、営業ベタのおっさん画家は、お客にそっぽ向いて絵を描いている(あんたは一体何しにここに来たんだ?)。さらに隣の奇才作家は、黙々とう○こを描いているし、やたらハグを求めてくるオカマのお客や、挙げ句の果てはエロ漫画を売っている奴までいるという(昼間だぞ・・・)。

 すべてのイベント会場がそうではないが、この光景はまるでカオス。ある意味、見ている人を虜にしてしまうドープな世界が広がっている。まがいなりにも社会人としての生活を送っていたことのある僕にとっては、彼らはかなりのインパクトで、セックス・ピストルズに出会った中学生のとき以来の衝撃だった。

 ストリートではいろんな人が、いろんな事柄で悶々としていて、それなりに出口を探している。紆余曲折。ハンドの靴作家になるはずの僕も、その中でまるでピエロのように立ち居振る舞いながら、出口を探していた。

 目的もなく、ただ絵を描いたり、何かを創ったりする人・・・
 人見知りで、人と話をするのが苦手な創り人・・・
 騙してお金を巻き上げるつもりだったミイラ取りが、ミイラになってしまった人・・・
 ただただ勘違いしている人・・・

 うらぶれた人々の掃き溜めから這い出そうとする人も、馴染んでしまった人も、それはそれで泥臭くていいにおいがする。人間が人間たる証として放つ、どうしようもなく胡散臭いにおい。僕はこういうにおいを愛してしまう傾向にあるらしい。今でも

この当時の作家やお客さんたちとは交流が深く、機会があれば酒を酌み交わすのだが、いつも何とも言えぬ皆の脱力加減に心地よく酔いしれている。

 ブランドなんてやっていると、お金をあげるから名前を貸しなさい。そんな人も出てきたりする。やりたい人はやればいいけど、僕はやりたくないからやらないし、そんな奴と酒なんか飲むくらいなら、場末の酒場でカオスな奴らとクダを巻いていたいと思う。作品より金の勘定が好きな奴と誰が飲むか、バーカ。

あ、ハナシそれすぎ・・・

 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

4.プロデュース大作戦

 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

 道端やアートのイベント会場、カフェやライブハウスなど。週末、とにかく人の集まりそうなところには、ことごとく赴いた。いろんな場所でいろんな人に会い、いろんな話をする。興味津々で立ち止まってくれる人が大半ではあったけど、中には冷ややかな目で通り過ぎる人もいた。

 あるとき実演中に、頭上に刺さる視線に目を上げると、同年代の男が下目使いで立っていた。僕が「どうもこんにちは、靴、作ってます」と交わすと、「ふんっ」と鼻を鳴らして去って行ってしまった。何が気に喰わなかったのかは知らないが、別に鼻まで鳴らしてくれなくてもよかっただろうに。道なんかでやっていると、いささか腑に落ちない出来事も少なからず起きてしまうことを知る出来事であった。


 しかし、こういうのならまだいい。というか許せる。観たこともない物に批判的になりがちな、人間の心情もわからなくもないからだ。ましてやストリート靴職人なんてのはネーミングからして胡散臭く、猜疑心を抱くには恰好の的であろうし、そんなものを見てしまった暁には、僕だってそうしていたかもしれない。

 それからしばしたったある日のこと。「お兄ちゃん頑張っとるね」と初老の男性が近寄ってきた。その頭皮を禿げ散らかしたおっさんは、散々靴を触り倒しながら、商売についての何たるかを刻々と語り尽くし、挙げ句の果てに「オマエはなっとらん」と説教を足れること小一時間。果てはワシがオマエを売れっ子にしてやると豪語し、「な、ええやろ?なっ、な?」と、プロデュース大作戦ときたもんだ。(今どき、こんな口説き文句じゃ、どこのねーちゃんも落ちんぞ・・・ってか、この人はホモだったのかも・・・)。
なんだか黙って話を聞いているのも癪に触ったので、数足分のオーダーを書き記した請求書を渡しながら「な、ええやろ?なっ、なっ?」と、そのおっさんよろしく口説いてみたら、怒ってかえって行ってくれた。あきらめの悪い男にしがみつかれている女性の気持ちを知りました。女子って大変だね・・・。

 (前作に引き続き、本題からそれていきそうなので、話をもとへもどします)

 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

5.ロックでいうと

 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

 ストリート開始から約半年、日増しに売り上げは伸びていき「もしかして、この調子ならストリートでメシを喰って行けるかも?」って、正直思った。ウェブや口コミで話が広がっていって、メディアも気にしだした頃だった。だけど、そうは問屋が卸さない。ストリート40本目に差しかかろうとした、とあるイベント会場で、僕はストリート靴職人を辞める決意をする。

 ある場所で、僕はいつものように実演をし、一人の女性に靴や自身の活動について話していた。長い時間話をし、その女性には靴をオーダーいただけることとなったのだが、そのとき女性の放った一言がきっかけで、僕はストリートを抜け出す決心をする。

 しょうがないわね、じゃ、これ頂くわ。

 
お客さんの放ったその一言に、僕の心は萎えてしまった。そりゃこんな場所で6万円もする靴をオーダーするんだ。言葉の中に、羞恥や照れのようなものも入っていることくらいわかっている。だけど僕にはそれが、哀れみをかけられているように感じたんだ。これが哀れみに聞こえてしまうのは、自分自身の心の問題で。それを拒絶してしまうのが、僕のくだらないプライドだったりもする。

 町の喧噪に紛れて聞こえてくるギターの音。メロディーに乗った声。ストリートには、頑張って歌っている姿が人の足を止めるミュージシャンと、足を止めざるを得ないくらい最高に上手い生粋のミュージシャンの2種類がいる。僕の20代は疑いもなく前者であり、ずっと後者に憧れていた。

 
あの時のギターケースに投げ込まれた小銭の音。全然もうかっていないわねと、と放り込まれた鈍く気怠い音がフィードバックした瞬間だった。

 足下に開かれたギターケースには自作のデモテープ。喧噪の中、ひとたびギターをかき鳴らせば、そこは彼らのステージに様変わりする。日々培ってきた技や感性を、ギターと声を武器に、どれだけの人の足を止めることができるか。そこで勝ち残った者だけが日の当たる場所(メジャー)でプレイすることができる、実力至上世界。ミュージシャンにとってストリートとは、戦場のようなものだと僕は思っている。
 どこの世界もそうだと思う。成功を勝ち取れるのはごくわずかで、大概の人間が海の藻屑と消える。20代、僕も同じようにギターを抱えストリートに立ち、夢を追い、そして塵のように吹き飛ばされた一人であったりする。

 「しょうがないわね、じゃ、これ頂くわ。」僕はこの言葉に感謝をしている。ストリートに夢を馳せ、そこから抜け出そうと必死でもがく、あの感覚をもう一度体験できたから。道で培った技、感性、度胸。そんなものを携えて、今は小さいながらもメジャーな場所で仕事をさせてもらっている。

 ロックでいうとこんなカンジ
 迷わずいけよ、いけばわかるさ
 1・2・3・ダー

 あ、これ猪木・・・(スンマセン 苦笑)

 
 
 
終わり