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 靴作家・森田圭一 ストーリー #1


 
 
 

 
西成製靴塾あたり

 
2006年10月。8年間働いた神戸市長田区の靴メーカーを退社し、私はハンドメイド靴の技術を習得するため一念発起、31歳で西成製靴塾の門を叩きました。きっかけを作ってくれたのは、靴メーカーに働く先輩。中学生から憧れたミュージシャンになる夢に敗れ、私生活では離婚を経験し、当て所のない毎日を送っていた私に一本の道を照らしてくれました。このコラムは、西成製靴塾という場所や、それに関わる方々と出会えたあの時の、濃密な時間を記録しています。
 
以下の文章は、2010年にメルマガ用に書き下ろした文章を、一部編集し掲載しています。
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

1.トラウマ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

 世間知らず、社会生活不適合者。自分を言葉で表現するなら、そんな奴だったと思う。21歳で結婚。それを期に15歳のときから目指していた、ミュージシャンとしての活動をやめた。にもかかわらずだ。24歳、音楽活動再開。諦めきれぬ想いが衝動を掻きたてた。生活をかえりみない”エゴ”だけが、むやみやたらに血管を駆け巡っていたあの時。

 音楽 > 嫁

・・・ごめんなぁ。

 ギターを抱え街頭に立つ。昼間は靴メーカーで製造の仕事に携わりながら、夜はストリートとバンドのリハ。朝7時過ぎにギターを抱え出勤し、帰宅は午前様。生業としての靴、それにしたい音楽・・・。数年に渡り続いたそれは、心身の疲労と夫婦間の亀裂を徐々に深くしていった。あの時、倒れ込むように入り込んだベットの生暖かい感触や、掛け布団の上で「みゃー」と鳴いていた、アメリカン・ショートヘアーのやわらかな重さが、今も胸をチクリと刺す。トラウマ。

 インフルエンザ、結核、ヘルペス、急性胃腸炎・・・まとめて。
 病床で点滴を受けながら、医師に迫られた。
 「音楽やめますか、それとも生活やめますか?」
 「嫁のために、生きようと思います。」

 とある冬の夜、僕は病院へ運ばれた。委ねられた決断の答えは、自分に対しての甘えの言葉だった。睡眠不足。売れない自費出版の音源。ストリートでの罵声。好きな音楽であるが故、耐えがたいストレスと疲労は、イコールでは綴られはしない、ありきたりの結婚生活にすり替わっていった。完全に自分のためだけのジャッジメント。虚勢を張り、大きく見せようとする自分自身の言い訳が、約束すらも守れない男のくそったれな言葉に代弁された。きんとした空気の張りつめる病室で、しぼんでいく溶液の入ったビニール袋と、その傍らの相方の顔。

 あのときあなたは、どんな表情をしていたんだろう・・・。
 「あなたのために生きようと思います。」
 そんな言葉から数年。

 29歳、離婚。

 ライン制御された靴工場。夢にまで見た音楽家としての生活。そして、終わってしまった結婚生活。何もかも虚勢を張って生きてきたのは、笑ってしまうくらいわがままで、気の弱い自分を守るための行為だったんだと今更ながら思う。自分の言動が、たくさんのヒトを傷つけてきた。当たり前のように、気がつけば周りには誰もいなかった。くだらねぇと、吐いて捨てた様々なその代償は、今、僕の中にトラウマとなり住み着いている。

 どっかの誰かが言っていた。
 「トラウマはずっとなくなるモンじゃない。」
 今、kokochiの靴を創らせているのは、自身のトラウマかもしれない。

 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

2.最後の悪あがき

 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

 神戸市長田区、ライン制御された靴工場のレールの上、目の前を淡々と通り過ぎていく出来かけの靴たちを眺めながら、僕は8年間、食うための靴を作って来た。納期が間に合わないと言えば、履き口の笑った靴を手でひん曲げて出荷し、中敷のブランドタグのほんの少しのずれで帰ってきたパンプスに、本質からかけ離れた、行き場のないやるせなさを感じた。

 18歳、働き先のセレクトショップで靴の面白さに出会い、22歳で入った靴製造の世界。好きであればあるほど、作れば作るほどに、むなしさだけが残る毎日。少しずつ溜まっていった、8年間の心中のもやもやは、ある時まるで紙コップの膨張線を超えて溢れ出る泥水のように、どくどくと音を立てて流れていった。

 「もう無理です」
 30歳の終わり、僕は長田の靴工場に別れを告げることとなる。

 雇い主に言い放った最後の言葉に、爽快感と将来への不安を感じた。そんな宙ぶらりんな自分の気持ちを、前に進ませたのが一冊の本だった。岡本太郎・著「自分の中に毒を持て」。靴メーカーを退社後、あてどもなく進路に悩んでいた(というより、途方に暮れていた)僕を見かねて、知人が貸してくれた本。そして、それを読んでいた時、たまたま西成製靴塾のことを知ることになる。ハンドメイドの靴、作ってみたい。

 バツイチ、諦めた音楽家への夢、靴メーカー退社。もう捨てるものなんて何もなかった。教師に中指を突き立て続けた18歳まで。学校嫌いのおっさんが「最後の悪あがきの場所」に選んだのが西成。31歳の夏、西成製靴塾、途中入塾を決める。

 わずかながらの退職金と、残っていたギターを売り払い、入学金を工面した。実家に戻って父親に頭を下げる、少しの間お世話になります。アルバイトもしなければならない。夕方から終電まで、兵庫のパッキン工場で働くことになった。これで月謝も払えるめどが立った。実家から学校まで約2時間。睡眠間が3時間程度。半年間なら耐えられそうだな。そんなこんなを準備していくうちに、くだらないプライドは、とっくに無くなっていた。

「怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ。やってごらん」
太郎さん、そうなんだ。

あのときオレは怖かったんだよ・・・

 高い丘の上、不動の大石がそこにあったとしよう。その場所は鬱蒼と茂る草木のせいで、誰の目にも触れやしない。そんな大石はあるとき、長い年月を経、雨風で剥がれていく岩肌のせいで、ごろんと転がり始める。高い丘の上からごろん、ごろん。いっさいの物をなぎ倒し、ころがり、加速していく。

 いろんな人生の交錯が、僕を西成製靴塾へ向かわせた、31歳の夏。大阪市西成区、小学校の空き教室。

好きな靴を作って、それを生業としよう。
そのためにハンドの靴を学ぼう。
学校出た後、身になってなかったら、カッコわるいな。
まぁいっか、そんときはそんとき、とりあえず悪あがきを楽しもう。

 あのとき転がりだした不動の大石は、未だ転がり続けている。
おっさんの悪あがき、いつまで続く。ごろん、ごろん。

 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

3.じいちゃん先生

 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

 遠くに響き渡る廊下をかける音。小学生の声。大阪市西成区にある、小学校の空き教室に西成製靴塾はある(2020年9月現在は移転)。10月の初め、僕は遅ればせながらの新入生となった。現場歴8年の自信と過信、それとは裏腹な不安な気持ちが身体中を駆け巡っていた。初日、教室の扉を開け、皆に挨拶をする。いきり立った肩がそれを象徴していた。まるで道場破りにでも来たかのような気分だった。

 そんな僕を上目使いで見る塾長。
 にやりと笑った、じいちゃん先生が印象的だった。

 ズボラ、キヤスリ、掬い針。長田の町では、お目にかかることのなかった道具たちが眼前に並ぶ。それらの用途を教えてもらいながら、底を削り、整え、慣らす。またはそれを縫う。あらかじめ形成されたソールを、貼り付けるだけの工場のそれとは違い、粗断ちされたソールをクラフト包丁でカットしていく。
 自由自在、いつだってその時の気分でカタチの変えられる底まわり。作りながらにして、創る作業ができる行程がそこにあった。これだ、そう思った時、僕は「作家」という職業の可能性を、潜在意識の中に見いだしていた。今もあのときの、変わらないデコボコとした風合いの底を持つ靴たちは、kokochiブランドの特徴の一つとなっている。

 入塾早々、机上で、そしてミシン台で、悶々とする日々が続いていた。とにかく課題はパターンとミシン。現場では全くといっていいほど手を付けなかった行程だ。カタカタと数目走ったミシン目は、重ね合わせた革の段差をことごとく外し脱線し、机上では数ミリの誤差の意味に頭を抱えていた。出来なくなるとその意味を探り、手は止まり、徐々に悩めるスパイラルにはまっていく。
 意気揚々と挑んだ、自信と過信に満ちた道場破りは、ことごとく木っ端みじんに打ち砕かれた。ついて口に出る言葉は「悔しい・・・」そんな僕を見かねてか、じいちゃん先生がやって来て、僕の耳元で呟いた。

 「はよやれ。失敗したらもう一回やり直したらええねん。」
 なんだか実は、何気ないこの言葉が今の自分を作っていたりする・・・。

 早くやれ。ぽんと叩かれた肩の重み。何度も、何度も繰り返した練習。効率や確率で進んでいくのが当たり前の現代社会の渦中、僕は西成製靴塾で千本ノックをやっていた。「上手になりたい、これでメシを喰いたい」そんな頑な思いが、数をこなす力となった。1日1パターン型紙をおこし、裁断から縫製、そして吊り込みまで。約一ヶ月の間で、30パターンの型紙と縫製を作る月もあった。

 「やったらやっただけ、上手になるんやで~」
 何気ない塾長の言葉が、僕の背中を押す。

 僕は今も思っている。何かが欲しいと思う気持ちが、強ければ強いほど、がむしゃらになれる。だから千本ノックは、その為に必要なんだよって。音楽も家庭も、仕事すらも無くなった自分には、ここに賭けるしかなかったのだけど、その切迫感があって、今の自分があるのだとすれば、携わってくれたいろんな人たちに感謝だ。

 入塾からしばし。空いた時間で、自分用の靴を作った。どうでしょうと、差し出した靴の前にはじいちゃん先生。コバに触れ、アッパーを撫でる。緊張。しばしの沈黙の後・・・


「一足で天下とろうと思ってたら大間違いやで~」


 全部お見通しだ。このヒトには叶わない。道場破りにはまだ、力およばずってやつだ。なんて思っていたら、こっそりとじいちゃん先生。


 「技と一緒に人生も学ぶんやで~」


 僕を上目使いで見る塾長。にやりと笑ったじいちゃん先生が印象的だった。技も人生も、積み重ね続けたからこその、リアリティのある言葉の数々は、今も僕の胸に、しっかりと刻まれている。

 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

4.社会生活不適合者

 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

 こんな分厚い革、どうやって切るの?チャンってどうやって作るの?

 授業中、近くにいた誰かを捕まえては、そんな類の質問を根掘り、葉掘り執拗にしていたのを覚えている。ハンドメイド靴の世界から見れば、メーカーで製造を何年やろうが所詮は機械だよりの仕事だ。出来上がったパーツを貼りつけるだけの作業でしかない。入塾当初は、何もかも知らないことだらけ。手製靴初心者。なんとかみんなに追いつきたい、そして追い越してやるんだと、はやる気持ちだけが自分の中を占拠していた。素人同然。他の塾生との半年間の差が歯痒かった。

 ハンドソーンって?
 ロウの塗り方はこれでいい?
 ・・・って、質問ばっかり。
 皆には、はなはだ迷惑な話だったと思う(ごめんね、みんな!)

 10時から15時まで。間に昼休憩を挟みつつ、約5時間の授業が終わるとアルバイトへ。向かう先はとあるパッキン工場。ポットや蛇口のゴムを作る仕事。たいやき機のようなプレートの上に、練り状のゴムを置き、それを閉じればタイマーがセットされる。数分後に焼き上がったゴムをプレートから素早く取り出して洗浄。そしたらまた次のセットを開始する。そんな一連の作業を、数台掛け持ちでやっていく。とにかく深夜作業が眠かったのを覚えている。

 ゴムパッキンと靴。同じ作る仕事にも関わらず、どうも前者は、僕にとって不向きな仕事だったようだ。毎夜、与えられたノルマにはことごとく達せず、僕の足下には形成仕切らなかったゴムパッキンの不良品が、山のように積まれていた。初心者だから仕方ないよと始めは優しかった工場長の表情も次第に険しくなっていったのは当然のこと。18歳から今まで、靴に携わる仕事にしか就いたことのない僕は、靴以外にも切迫感に追いかけられる事となる。

 とある冬の夜。入塾からしばらくたった頃、パッキン製作歴3ヶ月にして戦力外通告。苦し紛れに工場長に言い放った最後の言葉が笑える。「これでも、長田の街(靴業界)では、ひっぱりだこやったんですよ」と、負け犬の遠吠え。語尾に向かうにつれ、か細くなっていく口調に、はいはいと流されつつ工場の外へ促される。吹きすさぶ真夜中の風が、いつも以上に冷たかった。

 社会生活不適合者、そんな言葉が頭をよぎったとき、
 逃げ場は「靴」しか残っていないと悟らざるを得なかった。
 自分には靴しか作れないってことかと、腹を括る決心をしたあの日。

 朝8時に家を出て10時から16時頃まで西成で靴を学んだ後、終電までアルバイト。帰宅後、ブログをアップして就寝。土曜日は朝から、長田でお世話になった工場でミシンの練習をし、夕方からバイトへ。日曜日は自宅で、自分や友人のための靴を作っていた。通塾中の毎日のスケジュールはこんな感じ。
 毎日靴の事を考えて、それをカタチにするべく鍛錬に励む。あの頃は、聞こえてくる風の音も、夕日に伸びた自分の影も、猥雑な電車のつり革広告にすら靴を映していた。

 眠る時間が惜しかった。
 いつも執着しだすと、徹底的に掘り下げないと気が済まなくなる。
 やがて、負けたくないって気持ちが、いつも傍らにつきまとう。

 何に対して負けたくないの?
 自分に対して・・・
 しんどい?
 しんどくないわけがない・・・

 これくらいでくたばったら、それだけの人間ってことよ。
 まだまだ、あまいって。
 はい、もっといっとこって具合に。

 音を紡いでいたとき、それで身体壊したのに、
まだまだ懲りてない。
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

5.卒業

 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

 西成製靴塾にも冬休みがある。クリスマスあたりから約2週間。その間、僕は資材と道具一式を自宅に持ち帰り作業をしていた。何人かの知人の靴を作る為でもあったし、なにより手を休めて鈍ってしまうのが嫌だったからだ。とある野球選手が、正月返上で練習に励む気持ちがよくわかった。手の感覚を忘れてしまうのが怖かった。

 連日パターンを取り、裁断が終われば、元働き先の靴工場でミシン掛けをさせてもらう。それが終われば自宅へ戻りまた作業。自分の部屋を工房にみたて、吊り込みから底周りの切り回しといった具合に、意気揚々と手を動かす。。途中で糊が無くなれば、長田の現場で拝借し、足りない道具はホームセンターの工具売り場のもので代用した。

 靴の行程は200ともいわれている。ましてハンドの場合は、それ以上にのぼる。行程が進むにつれ、次第に施すべき行程の順序が曖昧になってくる。ああでもない、こうでもないとやっているうちに一足が出来るのだが、どうもしっくりこない。なんだか不完全燃焼。結局その休み中に3足ほどの靴を作ったのだが、充足感どころか不安な気持ちでいっぱいになった。

 一人になれば、ぎくしゃくとした靴になるな。
 自宅に居れば、頼るところがないからだ。
 なんだ、今まで学校や先生に頼ってばっかりだったんだ。

 そんなこんなで悶々としていた2007年のはじめ、冬休みが過ぎた頃。西成製靴塾8期生もそろそろ卒業の時期にさしかかろうとしていた。卒業まで1ヶ月をきった2月の終わり、僕は西成ではなく自宅にいた。とにかく学校に居れば誰かに頼ってしまう。独り立ちした時に、誰かに頼れるかというと、そんなケースは滅多にないだろう。ならばこの一ヶ月、まだ頼れる場所がある時に、一人で何とかやってみよう。本当につまずいた時は教えを乞おう。でもなるべくなら、一人で作れるようになりたい。

 じいちゃん先生に相談してみた。
 おまえの好きなようにやれ。
 案の定、返って来た言葉で楽になった。
 ありがとう、がんばりますと教室を後にする。

 2007年3月24日、西成製靴塾卒業。

 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

6.あとがき

 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

 今、あの時を振り返ってみると、とてつもなく濃度のある毎日を過ごさせていただいたと思う。ゆるく、おだやかであるにも拘らず、なにか人生の重みを感じさせる塾長や、個性あふれる講師陣。そして同胞たち。また、西成という町の独特な空気感。どれを取っても、今の自分に欠かせなく、地肉の重要な一部分となっている事は疑いのない事実だ。そして、マシンメイドの靴と、ハンドの靴の擦り合わせが出来たのは、メーカーで働いていてよかったと思う、自身のひとつの収穫となった。

 何をやっていてもそうだと思う。やがて夢は目標へ変わり、あるときそれがリアルになる。人よりも(いろんな意味で)上手くなりたいと思ったら、誰よりも多く、それに携わることが必要だ。自分の弱さに負けて、それを怠ったとき、その人の夢は現実にはならず、ましてや目標にも至らないだろう。

 何事も怖がっていてはダメ。当たって砕けて、バンザイってやってしまうくらい、突き抜けなきゃダメ。現実的な失敗なんてクソくらえ。失敗しても、気持ちが豊かであるという事は、後悔のない証拠だ。たとえ一文無しになっても、胸を張っていられる。音楽も、結婚生活も、長田の靴メーカーも。未だ一つとして貫き通せぬまま、自信をなくしていた自分に勝つべく挑んだ西成製靴塾、そこで僕が学んだ事はそんなこと。技と一緒に、人生も学ばせてもらったことに感謝だ。

 弱い気持ちで、強いモノは創れないんだよ。
 気持ちはモノに宿る。


【追伸】
 不器用な文章ながら、毎日欠かす事なく綴ったブログが今もある。読み返してみると、穴があったら入りたいくらいにこっ恥かしいのだが、あの時の悶々としていた自身を忘れない為にも残していたりする。こうベくつ家が始まる前の、夢見るおっさんの西成製靴塾日記。暇があれば一読あれ。

靴の戯れ言(西成製靴塾日記) http://kokochi-333.jugem.jp/?cid=71